鮭のまち・村上

村上が誇る鮭文化。その物語を紹介します。

 

神社へ奉納される鮭

 

新潟県北部の城下町村上。村上地方の方言で鮭のことを「イヨボヤ」といいますが、実はイヨもボヤも魚という意味。つまり鮭を「魚のなかの魚」と呼ぶぐらい村上には鮭文化が根付いています。

しかし、かつて鮭が全く獲れなくなった時代がありました。その危機を救ったのが村上藩士・青砥武平治〔あおと ぶへいじ〕であり、当社の御祭神で村上藩主の内藤信敦〔ないとうのぶあつ〕公です。

今日の村上の鮭文化ができるまでに様々な人物のつながりがあり、物語がありました。
その一端をご紹介します。

 

鮭の不漁と「種川」考案者「青砥武平治」

現在でも市内を流れる三面川〔みおもてがわ〕には毎年多くの鮭が遡上し、鮭のまちとして全国に知られるようになった村上ですが、鮭とのかかわりの歴史は古く平安時代には鮭を朝廷へ献上した記録が残っています。
そして江戸時代には、鮭漁による収益(運上金)は村上藩の貴重な財源でありました。

しかし、江戸後期になると乱獲により鮭の漁獲高が年々激減し、藩の財政は悪化の一途を辿ります。ついには、1738年(元文3年)に不漁のため鮭漁の停止が命じられるほどでした。

当時、鮭の生態はよくわかっておらず、これまで当たり前に獲れていた鮭が年々減少することに、人々は為すすべがありませんでした。

そんな時、村上藩の武士であった青砥武平治は、鮭には生まれた川に再び戻ってくる習性「母川回帰性」があることを世界で初めて発見します。そこで、鮭を獲らずに保護し、川でしっかりと卵を産ませることでいずれ鮭が戻ってくるだろうと考え始めました。

藩の江堰役(治水関係の役職)であり測量の免許皆伝者であった武平治は、一本であった川を本流と支流に分断し、本流の鮭はこれまでどおり漁を行い、支流に遡上した鮭は獲らずに産卵を行わせること藩に献策します。これは、漁師の生活と鮭の保護を両立させる武平治の画期的なアイデアでありました。

時の村上藩主・内藤信凭〔ないとうのぶより〕公は、下級藩士にすぎない武平治の建議を受け入れ、河川を改修し鮭の保護に乗り出します。
しかし、当時は自然保護や養殖という概念のない時代です。ただでさえ漁獲量が少なく収入に困っている状況で、鮭を獲るなという武平治の先進的な考えは民衆には広まらず、藩の目を盗んで漁をするものが現れたり、ついには漁を望む近隣の村々と争いが起こるほどでした。
この争いに際して武平治は幕府へ鮭の保護の重要性を訴え、ついには幕府からその正当性を認められたのでした。

のちに「種川の制〔たねがわのせい〕」と称されるこの制度は、世界で初めて鮭の自然ふ化増殖を行うものであり、北海道の石狩川でも取り入れられるなど、鮭を人工授精させる「人工ふ化増殖」が普及するまでの100年間、日本の鮭増殖の主流となりました。

 

『三面川鮭魚養殖場之図』(村上城跡保存育英会 所蔵)

  

藩主・内藤信敦公による「種川の制」

第6代村上藩主・内藤信敦公は、聡明な城主で幼少の頃から学を好み、何事も公平廉潔に判断をされていたので、幕府の要職である寺社奉行在職時には、信敦公の月番になるのを待ち、訴訟を提起する者が多かったと云われています。また、さまざまな産業を保護奨励し藩の財政を豊かにしたお殿様でもありました。

1794年(寛政6年)には、父・信凭の時代から行っている鮭の保護を発展させ、産卵期には竹柵を設けて川を遮断し、支流(種川)に集めた鮭の漁を固く禁じる「種川の制」を制定しました。また、信敦公は1796年(寛政8年)に大規模な河川改修工事を行い、8年後にはついに三面川を3本の河川とする「種川」を完成させました。

内藤信敦公 御肖像(藤基神社所蔵)

 

「種川の制」により、減少していた鮭は次第に増え、藩へ納める運上金は1000両を超す年もあったほどでした。また、これにより財政の潤った村上藩では、藩校・克従館を中心に藩士子弟の教育にも大いに力を入れました。

 

『岩船郡村上三面川鮭漁之図』(村上城跡保存育英会 所蔵)

 

鮭の収益で優秀な人材「鮭の子」を育成

明治維新後もその意志は引き継がれ、1882年(明治15年)には旧藩士たちで「村上鮭産育養所〔むらかみけいさんいくようじょ〕」を立ち上げます。

そこでは新たに鮭の人工ふ化増殖にも取組み、その収益で教育や慈善事業などにも力を入れます。その中でも、藩校・克従館の精神を受け継いだ育養所は子供たちの教育へ特に力を注ぎました。

育養所の士族たちは、立派に成長した子供たちは、やがて村上に帰り郷土の発展に尽くしてくれるだろうと願い、藩士の子弟へ奨学金を支給することで多くの優れた人材を世に送り出しました。この奨学金を受けた子供たちは「鮭の子〔さけのこ〕」と呼ばれ、たくさんの偉人を輩出しました。

その中には、皇子傅育官長として秩父宮・高松宮両殿下の教育係を務めた「三好愛吉」や、乃木希典大将の通訳を務めた外交官「川上俊彦」、日本最初の工学博士「近藤虎五郎」、法務大臣で中央大学教授の「稲葉修」など枚挙にいとまがありません。

また、雅子皇后陛下の祖父・小和田毅夫氏も鮭の子として奨学金を受け、後に県立高等学校の校長を務められます。

小和田家は村上藩士の家系で、毅夫氏の代に村上を離れたあとも村上を本籍地としました。そのため、当時の小和田雅子様が皇太子妃として皇室にお入りになられる際に戸籍から抜く「除籍」の作業も雅子様の本籍地である村上市で行われました。

また、宮内庁が皇太子妃雅子殿下のご懐妊を正式発表した5月15日は、奇しくも村上藩士族の氏神神社である当社藤基神社の例大祭の日であり、ここでも村上とのゆかりを強く感じることができます。

 

そして現在へ

明治期に子供たちへの教育を何よりも大事にしていた村上鮭産育養所は現在、「一般財団法人 村上城跡保存育英会」に名を変え、国指定史跡「村上城跡」の保存維持活動と市内小中学生への郷土教育機会の提供を行っています。

種川の制を制定した村上藩主内藤信敦公は、当社藤基神社の御祭神として、いまも郷土を守っておられます。また、神社境内には青砥武平治の頌徳碑として村上鮭産育養所が建立した「種川の碑」があります。

 

種川の碑(藤基神社境内)

 

江戸時代に鮭を保護し、現在につながる村上の鮭文化を守った武平治と信敦公は、村上の鮭を語るうえで欠かせない郷土の偉人です。彼らのたゆまぬ努力があったからこそ、いまなお鮭は村上を代表する名産として全国に名を馳せています。
そのことを胸に留め、村上では「鮭の日」である11月11日に「鮭魂祭〔けいこんさい〕」を行い鮭への感謝と変わらない豊漁を祈願しています。

 

その後、下級藩士であった青砥武平治は働きが認められ、七十石取りの家臣へと異例の大出世を遂げました。
そして、銅像となった現在も、川の河口を見つめ、鮭が大海から無事に戻ってくることを見守り続けているのでした。

青砥武平治 銅像(イヨボヤ会館内 鮭公園に建立)

  

村上と鮭のつながりにご興味をもった方は是非こちらに足をお運びください。
日本で最初の鮭の博物館 イヨボヤ会館

 

 

参考文献(あいうえお順)
・鮭の歴史日本に誇る「種川の制」(村上地区まちづくり協議会伝統文化部会)
・種川を支えた人たち(本間哲郎)
・村上郷土史(村上本町教育会)
・村上市史近世編(村上市)